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■洗硯とは? ■端渓硯について 

■端渓老坑水巌石の鑑別由来

 端渓硯―少しでも硯というものに興味を持ったことがある人ならば、この名を知らない者はいないでしょう。名硯といえば、この端渓硯を指すといっても過言ではないほどです。
 端渓硯とは、中国広東省肇慶市の爛柯山周辺から採取される硯石の総称です。その始まりは、今から千四百年ほど前、唐の武徳年間(西暦618年~626年)にさかのぼると伝えられています。
 日本に端渓硯がもたらされたのは、主に明治以降のことになります。中国最後の王朝である清朝が大きく傾き、亡国の断末魔にあえぐ時期、幸いにも日本は維新の革新に成功し、列強の片隅に名を連ねることができました。それ以後、逆転した経済状況の下、中国から夥しい文物が日本にもたらされましたが、当然、その中には端渓硯をはじめとした多くの硯石も含まれていたのです。それ以前の江戸時代などは、「紫石」という名称が使われ、端渓の名前は知られていたものの、実物を区別できるほどの量が渡来していなかったことがわかります。日本人にとって、端渓硯が身近になったのは、わずか百年前後の期間でしかないということです。
 されど、この百年前後の期間にもたらされた端渓硯の数は、膨大なものになります。当然ながら、その中身は玉石混交であり、得てして雑石が多いことは否めません。渡来当初は、物珍しさも手伝って、端渓硯の中の諸坑といわれる低級な硯石を多く入手し、それこそ燕石什襲の感を呈したはずです。その後、いささかなりとも端渓硯を愛好する人々が増えると、「硯書」といわれる硯の解説書をもとにして、現れる石紋や施されている彫琢などを手がかりに、硯を鑑賞する風習が生まれました。それは、やがて「鑑賞硯」などという、奇妙な言葉まで生み出すに至ります。  その一方で、端渓硯の中でも、老坑水巌というたった一つの洞坑から採石されたものが、貴重な硯石であるという知識だけを身につけるに及びました。しかし、硯書から知識や名称は得ることができても、その実物は如何なるものなのかということまでは、知ることができません。今日においても未だ続く端渓硯の混乱は、端渓硯の中の老坑水巌というものが、如何なる硯石であるかという、その一言に尽きると思います。
 中国の文物は、概ね美しさと実用性を兼備するのが通例です。美しい青花の大皿は、例え実際には飾る用途に用いられたとしても、それが皿である限り、モノが盛れないものではないのです。これを硯にあてはめれば、墨を磨れない硯などというものは、硯ではないことになります。石紋や彫琢などの見た目がいくら優れていても、肝心の墨をよりよく磨る、すなわち発墨させることができなければ、名硯ということは決してできるものではないのです。
 また、文房四宝と総称される筆・墨・硯・紙は、互いに密接に関連しあうものです。一口に墨と言ってもピンからキリまであるのですから、名硯の誉れを得た硯石であれば、まさに名墨と最も相性がいいことになるのは当然でしょう。
 中国で文化大革命がおこって後、それまで秘蔵されていた中国の個人コレクターの古墨が、こぼれるように日本にもたらされました。それら本物の古墨の内、清朝時代の歙県の墨匠である汪近聖や汪節庵といった名墨の誉れの高いものを用いて、磨墨しては清水で洗う、すなわち洗硯というものを、さまざまな端渓硯石に日々施していったところ、その結果は驚くべきものでした。美しい石紋を持ったある硯石は、透明感が増し温潤さを身にまといましたが、やがて鋒鋩が退いて古墨を磨ることができなくなってしまいました。古格芬々たるある硯石は、ざらざらと粗い鋒鋩で下墨だけが早く、やがて石紋さえ見えなくなるほど真っ黒になってしまいました。
 そんな中にあって、古墨を磨れば磨るほど鋒鋩が整い、硯墨一体となった磨り心地となり、見えなかった石紋が現れ、透明感と温潤さが増すとともに、石中から宝光が顕れて得も言えぬ品格を備えていく硯石がありました。それこそが用美を兼備した硯の至宝であり、真実の老坑水巖硯石だったのです。中でも、老坑水巌中屈指の硯材である大西洞硯石は、その変化が最も顕著であり、この硯石を基準にすることで、その他の老坑水巌硯石―正洞、小西洞、東洞などを鑑別することが可能となりました。
 一時期、「老坑水巌は判るが、大西洞は鑑別できない」という、迷信じみた俗説が流布しましたが、最も優れたものを理解できずに、それ以下のものを鑑別するというのは、如何にもナンセンスなことでしょう。この当時に老坑水巌と称された硯石の多くが、本物の古墨を用いた洗硯という方法を施してみると、異なる結果となってしまったのも、致し方ないことと言えるのです。  1970年代になって、老坑水巌の洞坑に新たな坑道が開削されました。これにともない、清朝時代に採石し残した硯石を採る一方で、異なる別脈の硯石を発見・採取したのです。かつての老坑水巌硯石の残余のものは、中国国外への持ち出しを禁じて世間に流布しないようにする一方で、新たに見つけられた別脈の硯石をもって、国内外に大いに販売していきました。この「新老坑」と通称される別脈の硯石は、現れる石紋などかつての老坑水巖硯石に酷似しているのですが、洗硯を行っていくと、よりよく変化していく力に欠けるものでした。「精霊の宿らない硯石」、そう地元で口承されるものだったのです。
 古人いわく、「耳をもって視るものは、昏(くら)く、目をもって視るものは、哲(さと)し。心をもって視るものは、神なり。声だけを聞いて雷同するのは、耳で視ることであり、描かれた図をしらべて千里の駒を捜すのは、目で視ることである。そのものの特長をよくよく観察し、その真実のすがたを求めることこそ、心で視るというものだ。」と。これを硯石の鑑別にあてはめれば、単に名称や伝来だけで判断するのは、耳で視ることであり、現れた石紋や施された彫琢や硯式だけで判断するのは、目で視ることにあたり、いずれも本当のことを知るには至りません。心をもって視るべきもの―それこそが、端渓老坑水巌硯石の真実なのです。

              二〇〇五年仲秋 肆石山樵 識

問1:洗硯とは?

 日本においては通常、陽光の下に置いた盥(たらい)等に水を張り、その中に硯石を沈めてより鮮明に現れる石紋などを鑑賞することを、「洗硯」と言っています。
 しかし、当店においては、そのような鑑賞一辺倒の所作だけに止まらず、古墨を用いて実際に磨墨し、その後、用いた硯石を洗い、その上で鑑賞するという、より実用に即した所作を含めて「洗硯」と称しています。むしろ、この実用の面こそを重視しており、こうする事で、端渓老坑水巌石などの良硯材は、透明感や温潤さが増し、さらには見えなかった石紋が現れ、鋒鋩もよりよく整っていくという変化が起こります。
 当店では、この変化の度合いを鑑別し、鋒鋩の緻密さや石紋の見え方が最もより良く変化するものを、最上の硯石だと判断している訳です。この鑑別には、少なくとも3ヶ月以上に渡り、この「洗硯」を日々繰り返していくことが必要です。
 使い込めば使い込むほど、よくなる硯石! 当店における「洗硯」は、「養硯」という言葉で置き換えることができるでしょう。

問2:実際の洗硯のやり方は?

 一般の方は、問1の左図にあるように、①清水で硯を洗う、②洗った硯の水気を除き乾かす、③磨墨する…
(書画など創作活動をされる方は、出来た墨汁で行ってください。一通り創作が終わったら、…)
④残った墨汁に水を加えて薄め、硯全面に広げる、⑤そのまま一晩寝かせる。そして、次の日に①から順番に繰り返していきます。
 「三日顔を洗わなくてもいいが、硯は洗わなければいけない。洗えば洗うほど、神気が増す」と、昔の中国の諺も教えています。日々努めるようにしてください。
 なお、当店では、一度に洗硯する硯石の量が多いことと、墨がもったいないこと、また、変化の仕方を随時把握したいことなどから、磨墨して出来た墨液をコップに取り、水を加えて数倍に薄め、その薄墨を硯に塗っては乾かし、塗っては乾かしという所作を繰り返していきます。乾きを早めるため、ドライヤー等温風を当てながら行います。
 また、洗硯を行うに際して最も重要なことは、使う墨を厳選することです。

問3:洗硯に使う墨を教えてください。

 工業用カーボンブラックが多量に入った現在の中国墨では、どのような硯石であっても黒くなってお仕舞です。また、こと洗硯に関しては、どのような時代の和墨であっても、中国の硯には適応しません。
 出来うる限り中国の清朝時代の本物の古墨で、油煙墨を使われることをお勧めします。また、硯材史上最も優れた大西洞硯石クラスのものを洗硯する場合、清朝時代の古墨の中でも、より優れたものを厳選する必要があります。この場合、清朝中期以降の徽墨の中でも、汪近聖(鑑古斎)、汪節庵(函璞斎)など歙県の墨匠の製品を使うべきでしょう。よく目にする古墨の内、胡開文(蒼珮室)のものは余りお勧めいたしません。
 古墨は、なかなか値段の張るものですが、それだけの違いがあるのです。

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