■鈴木梅仙
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紀州田辺の鈴木清八(号・梅仙)が、実兄の松煙問屋を手伝う内に製墨を志し、慶応3(1867)年に創業。明治13(1880)年大阪へ移り、また東京へ出張所を設け「倣(人偏に方)古園」と称す。勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟などと親交し、多くの書画家がその墨を絶賛、明治から大正にかけて、著名な墨匠となりました。大正7(1918)年没。次男の三郎が二代目を継承。昭和2(1927)年その病没をもって廃業。
初代梅仙は清朝の墨を悪いものと否定し、自らの製墨はそれと異なる強膠の墨で、明以前の中国の良墨に匹敵すると豪語していました。松煙問屋から出ているので、製品のメインは松煙墨だと思いますが、実際は油煙の方が多かったなんて話もあります。また、海藻を入れるなどユニークな製墨法だったとの話もあります。まぁ、いずれにしても、江戸時代の古梅園による「唐墨は油煙より松煙が上質」という誤認を、わざわざ極めてしまった感がありますね。明治17(1884)年に中国へ渡航した漢学者・岡鹿門が、梅仙から依頼されてその製品を帯同、上海で胡開文の主人に鑑定を頼むと、光無き梅仙墨はけちょんけちょんに貶されて、「梅仙蕩尽家産」なんて記録されてしまう始末。それも、文房四宝の相性というものをちゃんと理解していなかった日本の事情を踏まえれば、致し方ないことなのでしょう。
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■玉泉堂
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(旧)〒510-0243 三重県鈴鹿市白子6436 |
(旧)TEL.059-386-0066 |
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かつて、伊勢(鈴鹿あるいは白子とも)墨を代表していた墨匠。伊勢国河芸郡の伊勢型紙を扱う商人であった長島孫四郎が、型紙を使った染色用に奈良へ注文していた墨を自ら作ろうと考えて、元治元(1864)年奈良の高天市町に長島製墨工場を創業。明治3(1870)年鈴鹿市白子町へ移転。材料の松材は隣国紀州の熊野から、膠は近隣の松坂から有名な松坂牛の原皮を用い、その他の化学製品は工業都市・四日市からと、立地環境を存分に生かし事業を発展。東京店や名古屋店を置いて幅広く展開して行きました。
伊勢墨の発端は綿布等の染色用としてでした。玉泉堂の広告などではそれ故に高級な墨だと解説していますが、江戸時代の太平墨の事例で分かるように、それはむしろ逆でしょう。また、染色用の墨が主に松煙であり、「唐墨は油煙より松煙が上質」という誤認が、この場合かえって幸いする事になったのでしょう。面白いことに、伊勢墨の墨匠は、松煙墨から始まり、材料の松材の不足等に伴い油煙墨も作るようになるという、お決まりの道を歩みます。
墨から筆なども扱う総合販売店化していった玉泉堂は、製墨は関連企業であった梶口製墨所(〒510-02 三重県鈴鹿市白子本町13-13 TEL.059-386-0066)等で下請させるなどしながら継続し、2010年前後に廃業に至りました。
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■栄寿堂
HP URL
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(旧)〒510-0243 三重県鈴鹿市白子2-7-43 |
(旧)TEL.059-386-0065 |
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和田甚こと栄寿堂として、著名な書画家に愛された墨匠。玉泉堂と同じく今は無き伊勢墨の名店です。廃業間もないので、近年その在庫が市場を賑やかにしていますね。
ちなみに、鈴鹿の墨匠は上記以外に、薗浦利右衛門の古照園製墨本店(三重県鈴鹿市磯山町678)、伊藤玄泉堂(〒510-02 三重県鈴鹿市白子2-33-27 TEL.059-386-0566)、青山春光堂(〒510-02 三重県鈴鹿市江島町1034-1 TEL.059-386-0091)、菊池文誠堂(〒510-02 三重県鈴鹿市五祝町455-2 TEL.059-386-1686)、喜田玉光堂(〒510-0243 三重県鈴鹿市白子2-6-11 TEL.059-386-0158)など、かつて7~8件あったようです。
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■進誠堂
HP URL
http://www.suzukazumi.co.jp/
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〒510-0254 三重県鈴鹿市寺家5-5-15 |
TEL.059-388-4053 |
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伊勢墨で唯一営業を続ける墨匠。先代は、はじめ奈良墨の職人をしていたと耳にしたことがありますが、確かではありません。今や財布だのお香だの、いろいろと大活躍ですね。
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■紀州松煙
HP URL
http://www.kishu-shoen.com/
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〒646-1101 和歌山県田辺市鮎川1912 |
TEL.0739-49-0801 |
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もともと奈良で作られていた墨汁用の煤を採る採煙業から転身し、墨自体を作る様になったと聞いています。鈴木梅仙でもわかるように、紀州田辺は昔から松煙煤を作る採煙業者が多いのですが、今では鉱物性カーボンブラック等の油煙煤も含め、幅広く扱うようです。
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