■日本の墨匠 ※2019年春季余舫雲竹氏の特別企画
奈良墨
平城京の昔より墨作りをしてきた奈良。中世になって興福寺の塔頭・二諦坊において油煙墨を開発。松煙墨より漆黒に色が出ると称賛されて、 「南都油煙」は大流行。織田信長が京都へ上洛した際には、興福寺より100丁の油煙墨が献上されたり、畠山さんや朝倉さん、毛利さんに島津 さんなどなど戦国大名がこぞってご愛用。江戸時代を通して、墨と言えば奈良って具合に市場を席捲し、その隆盛は今日に至ります。
紀州などその他の墨
文房四宝全てが地産地消の傾向が強く、南都油煙が一世を風靡する以前は、墨もいろんな所で作られていたと考えられます。史書には、播磨や 大宰府、淡路、讃岐、伊予、丹波など国単位の産地や、藤代(和歌山)、武佐(滋賀)、太平(京都その他)などの地名や商品名の記録が残さ れています。現在これらの遺品はほとんど目にすることができませんが、凡そ松煙墨だった考えられています。 ・藤代墨…建長6(1254)年の『古今著聞集』に、後白河院が熊野詣の途次、藤代宿で試した松煙墨として記され、しばしば貴族の歌に登場。名墨 として知られる一方で、質にムラがあったとも。室町時代あたりでその生産は終わっていたらしい。 ・藤白墨…古梅園が起こした松煙墨ブームの煽りを受けたというべきか、冷泉家より紀州藩へ「古歌に詠まれた藤代の墨は今は如何?」と質問が 来たことを契機に、あざとい紀州藩が湯浅村の橋本治右衛門に命じて寛保2(1742)年頃に復興させた墨。元の「代」から一字を変えて 「藤白」と表記。松煙墨かと思っていたら、油煙墨だったなんて説も。天保13(1842)年に廃業。 ・武佐墨…近江国武佐宿近隣で作られていた松煙墨。古梅園6代松井元泰がこの地を訪れた際、かろうじてその製法を伝える人物がいたらしい。 ・太平墨…古くから山城など色々なところで作られていた劣悪な松煙墨。書画に用いるより、水を張った大甕に投げ入れ棒でかき混ぜるなどして 、拳法染などの反物の染色に使われたらしい。 また、江戸時代を通じて、大坂や京都には一定数の墨匠が存在していたようです。
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